#1 お兄ちゃん - 1/3

「お兄ちゃん」

 ――って、呼べるのは私だけ。

 私だけの、特権。

 ***

 夕方、日も暮れ始めた頃。いつもなら学校帰りの学生や仕事帰りのサラリーマンなんかでお店がちょっとばかし賑わう時間帯。今日はどうも閑古鳥が鳴いている。なんでかな。

「まあそんな日もあるかぁ」

 私がそうぼやけば、「何が?」と隣から声がする。どうやら次の仕入れリストをチェックしていたらしいお兄ちゃんが棚にそれを戻してこちらを見ている。

「暇だな~って!」
「ああ、そうだね。……せっかくだし少し外でも行って来たらどうだい? 最近は店も忙しくて碌に遊びにも行けてなかっただろう」
「んー、それもそうかも。じゃあちょっとルミナスクエアの方まで行っちゃおっかな~? ね、おみやげ買ってきてあげるよ! 何がいい? ティーミルク?」
「今はティーミルクの気分じゃないなぁ……いや、何でもいいよ。リンが好きなものを僕の分も一緒に買っておいで」
「ええ~? うーん……じゃ、ぼちぼち考えながら行ってくるよ~。あ、もし忙しくなったら連絡して! すぐ帰ってくるから!」
「わかったよ」
「じゃ、いってきまーす!」

 お財布をしっかり右手に持ち、もう片方の手でお兄ちゃんと店番の18ちゃんに手を振るとすぐさま扉を開けた。外気に肌が触れると、少しばかり鳥肌が立つ。寒くなってきたようだ。さらにはお隣の滝湯谷のラーメンのいい香り……

「はっ、だめだめ! 今はラーメンに絆されてる場合じゃない! ルミナスクエアでいっぱいお買い物しちゃうもーん♪」

 こないだ発売されたばっかのネイルも見たいし、ティーミルクも新作が出たって聞いたし、お洋服も新しいの欲しいし、あとあとー……

 ルンルン気分で地下鉄に乗り込めば、思わずにやけた顔をしっかり平常運転に戻した。

「あれ、プロキシじゃん」

 思わず「えっ」と声を上げそうになる。声のした方を振り返れば、反対側のドア近くに立つサメの尻尾が目立つ女の子。エレンだ。ちゅぱ、と舐めていた棒付きの飴を口から離すとひらひらとこちらへ手を振った。

「ごめん、呼び方悪かった?」
「あ、ううん!」

 呼び方というのは、自分たちが生業としているその職業名とも言えるそれだ。誰が聞いているかわからないところで、言われると少々困るものなのだけれど。

「あー……リン、何してんの?」
「っとねぇ、お店がちょっと暇だから一人で遊びに行くところ」
「ああ、だからアキラはいないんだ」

 アキラ。

「うん。お兄ちゃんはお店見ててくれるって。だからおみやげ買って行ってあげるんだ~。何がいいと思う?」
「ティーミルクは?」
「気分じゃないって言ってたんだよねぇ。もーわがままだよね~」

 普段通りに返せたはず。
 それなのに耳にこびりついて離れないその言葉に心臓が高鳴る。

「じゃ、あたしここで降りるから」
「うんまたね~!」

 プシューと音を立てて開く扉の向こうへエレンは消えていく。
 それから今吐き出した人数と同じだけの人々をまた飲み込んで地下鉄は走り出す。

「………」

 小さく口を開いて、何の音も出せずに閉じた。

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