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随分と遅くなってしまった。ほとんど閉店の時間に等しい。
静まり返った六分街の通りを歩き、<Random Play>の扉を見れば『CLOSE』の札がかかっていた。
「ただいまぁ」
私の声に18ちゃんがお耳をぴこっと揺らして出迎えてくれた。
「おかえり」
声だけが奥から聞こえる。お兄ちゃんはまだ何か作業中みたい。私も手伝わないとかな。
開いたままになっているSTAFF ONLYの扉を抜け、中に入るとソファに座ったお兄ちゃんがボールペンを口元に当てながら書類と格闘しているようだった。
「何してるの?」
「今度何かキャンペーンでもやろうかなって」
「お兄ちゃんそういうの考えるの苦手じゃなかった?」
「あまりにも暇だから考えてた」
苦手なことをしてしまうほどに暇だった、と。
「私も一緒に考えてあげるよ」
「うーん」
真剣に考えているのか、生返事だ。
「一回借りに来るごとにクーポンあげるとかは?」
「んー」
「あとはー、あ! フェアやるとか! ホラーフェアとか! ホラー作品集めて~」
「んー……」
「………」
「………」
「お兄ちゃん」
「ん?」
「おみやげ、買ってくるの忘れちゃった」
「いいよ、気にしなくて。楽しめた?」
「んー……」
「……?」
落ちていた視線が、こっちを向いた。
お兄ちゃんの目に私が映る。
今私、どんな顔してる?
「………」
「……疲れたんなら早く寝たらいいと思うよ」
「……うん」
「……リン?」
ぽす、と音を立てて私もソファに座った。
少しばかり狭いソファのせいにして、お兄ちゃんの肩に私の肩が当たる。
「……ラ」
「え?」
「アキラ」
名前を口にして、横を見れば。
お兄ちゃんはきょとんとした顔で私を見ていた。
何故だか胸が急に苦しくなって、泣きそうになる。
名前を呼んだだけ。
それなのに。
呼んじゃいけない気もして。
「……何だい、リン」
お兄ちゃんの真面目な顔。
きちんと私に向き合って、言葉が出てくるのを待っている。
優しいお兄ちゃん。
「……みんな、アキラって、呼ぶから」
「……………え?」
またきょとんとした顔。それから「みんな?」と呟きながら首を傾げ明後日の方向を見ている。
「今日出かけてた時に出会った人たちの口から『アキラ』って名前が出てくるの。思えばこの街に住んでる人たちだってみんなアキラって呼ぶ。そりゃそうだよね、お兄ちゃんの名前はアキラで、同じ苗字の私たちを区別して呼ぶなら下の名前しかないもん」
「うん、そうだね……?」
「でも!」
でも
なんだか
悔しくて。
「……私は、お兄ちゃんって、しか、呼べないから」
私はお兄ちゃんの妹。
お兄ちゃんって、物心ついた時から呼んでいる。
ずっとずっと、目の前のこの人は私の「お兄ちゃん」なの。
「……え、っと」
お兄ちゃんは小さく口を開いて、それから、恥ずかしそうに笑った。
「リンも、アキラって、呼んでくれていいけど」
えっ、と思わず声を上げる。
「いや、お兄ちゃんって呼ぶの恥ずかしくなった? のかな、って。ほら、リンももういい大人だしね」
「………」
そうじゃない。
と、言うこともできず。
でも少しだけ頭の中で考えてみる。
私がお兄ちゃんのことを「アキラ」って呼ぶようになることを。
多分くすぐったさは数日もすれば慣れて、
お兄ちゃんもなんてことない対応をしてくれるようになって、
それで、
……それで。
「……でも、お兄ちゃんが私のお兄ちゃんであることは、変わんないよ」
「うん、そうだね」
「それなら、お兄ちゃんって、呼ぶよ」
「え? いいのかい?」
「……うん。いいの」
だって、
「お兄ちゃん」
――って、呼べるのは私だけ。
私だけの、特権だから。
「私だけのお兄ちゃんだもん」
その呟きが聞こえたかはわからないけれど、お兄ちゃんはぽんと私の頭を撫でて笑った。
「――リンも、僕だけの妹だよ」
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