「――こら、カウンターに肘をつかない」
ぴしゃりと隣から注意されて驚いて背筋を伸ばす。
「わわっ、お兄ちゃん! いたなら言ってよ~」
「今来たんだよ」
「脅かさなくたっていいじゃない」
「脅かしたんじゃなくて、注意したんだ。お客さんがいないからってだらしないだろう」
見れば客はもう一人もいない。
外も暗い。
時間だって、うん、あと五分もすれば閉店だ。
「すみませんでした~」
反省の声を上げれば、お兄ちゃんはすぐに許してくれる。
昔から私にすごく甘いんだ。
こんなに甘やかされて育ったんだもの、お兄ちゃんがいればいっかってなるのも当たり前じゃない?
「……お兄ちゃんがいれば、人生安泰だもん」
「え?」
店内BGMが流れてる。
それだけが、今聞こえる音。
私もお兄ちゃんも何も言わなくて、
次第に自分がいかに恥ずかしいことを言ったのか思い知らされる。
「……なんでもないですぅ」
ずるずるずる、と座り込んで膝を抱えた。カウンターに隠れてしまって、もう外からは私の姿は見えないと思う。
「リン」
降ってくるお兄ちゃんの声。
怒ってるのかな。
呆れてるのかな。
なんとなくお兄ちゃんの顔が見れなくって、膝に顔を埋めて表情を隠した。
「……何かあった?」
ぽん、と頭を撫でられる。
大きくて、優しい、お兄ちゃんの手。
「……ううん」
ふるふると首を振れば、お兄ちゃんの手は止まって、それからまたゆっくりと私の頭を撫でてくれた。
「悩み事?」
「ううん」
「お腹減ってる?」
「……違うもん」
「疲れた?」
「疲れてない」
「んー……」
お兄ちゃんの手が離れてく。
やめないで、なんて言えなくて、じっと体を強張らせた。
するとお兄ちゃんはどこかへ歩いて行ったかと思うと、すぐに帰ってきた。
「もう店は閉めてきたよ」
「………」
お兄ちゃんは静かに私の横に座って、二人ともカウンターの陰に隠れちゃった。
何にも言わないお兄ちゃんが気になって、少しだけ顔を動かして隣を見てみる。
目が合ったお兄ちゃんは真顔だった表情を崩して、少しだけ笑った。
「子どもの頃みたいだね」
「え?」
「かくれんぼ、よくしてただろう?」
「……近所の子たちと?」
「そう。リンが、どこに隠れたらいいかわからなくていつも僕と同じ場所に隠れるんだ」
「そうだったかなぁ~」
「すごく狭い場所に隠れる時も、二人で縮こまっているものだから、すぐに苦しくなって声を上げて見つかっちゃったり」
「あはは、そうだったかも」
「ここならきっと見つからないよってリンに隠れ場所を教えてあげたのに、結局僕にくっついてきてね」
「……嫌じゃなかった?」
「嫌なわけないじゃないか。可愛い妹がお兄ちゃんと一緒じゃなきゃ隠れられないって言うんだから」
「何それ~、恥ずかしいなぁ」
「……こうやって隠れてる時に、よく内緒話をしたりしたよ」
「内緒話かぁ……」
「……ない? 内緒話」
「んー……とね、なんだか私、甘やかされてるなぁって」
「ええ? 僕がリンをかい? ……結構厳しくしてきたつもりだけど」
「あはは! 嘘でしょ~!? お兄ちゃん私に甘いもん。他の人にも優しかったりするけど、そういうのじゃなくてさ~……結局何でも、許してくれるもん」
膝に頬を押し付けて、むくれそうになった表情を隠した。
お兄ちゃんは私を見つめたままで、何も言わずにいる。
「ぜーんぶ許してくれるから、私、このままでいいのかなーって思ったり。このままがいいなぁとも思ったり。でもお兄ちゃんは、このままじゃ嫌かもしれないなって、思った」
「僕はこの暮らしに不満はないよ? ビデオ屋の経営も面白いし、プロキシの仕事もまた軌道に乗ってきた、この街に来てから新しい友人だってたくさんできたし、リンだっていつも傍にいてくれる。何も嫌なことなんてないよ」
「…………」
黙り込んで、ちょっとだけ笑った。
お兄ちゃんがそう言うなら、いいのかも。
うん、何か困ったことが起きたとしてもその時はその時だ。
あんまり気にしなくってもいいよね。
「……変なこと言ってごめんね、お店片付けちゃおっか」
「ああ」
お兄ちゃんがすくっと立ち上がる。
でも私はちょっと足が痺れてしまって、「お兄ちゃ~ん」と泣きまねをしながら手を伸ばした。
「仕方のない妹だ」
いつもの、呆れた笑い顔。
お兄ちゃんの手が私の手首を掴んで立ち上がらせてくれた。
痺れた足のせいでもつれて、「わわっ」と思わず声を上げる。
体勢を崩した私をお兄ちゃんが抱き留めてくれた。
お兄ちゃんの細い体に身を預ける。
全然運動しないくせに、それでも私より筋肉がある。
胸板に頬を押し付けてしまい、「ごめーん」と顔を上げればそこにはいつものお兄ちゃんが――
「……っ、あ、ぇ」
私を抱きしめる腕に力が入る。
それからお兄ちゃんの右手が私の後頭部を撫でて、
そのまま耳を伝って、
頬に触れられた。
お兄ちゃんの表情は読み取れなくて、
何を考えてるかわからない。
ただ、その瞳の奥に揺れる感情が
いつも感じることの無いものだと私にさえわかった。
「んっ、おにいちゃ……」
お兄ちゃんの親指が、私の唇に触れる。
低体温のはずのお兄ちゃんの手が
熱い。
「――全く、何してるんだ? ほらしっかり立って」
「え、……え?」
「人に運動しろって言うくせに、自分も運動不足なんじゃないのか?」
「そんなこと、ないけど……」
「今日はリンが夕飯担当だろ。片付けは僕がやっておくから、そっちやってて」
「あ……うん、わかった」
お兄ちゃんが何でもないように離れていき、店内の掃除を始めた。
何が起こったのかわからなくて私はしばらくの間茫然としていたけれど、今の数秒間はきっと、夢だったのかもしれないと思い直した。
夕飯、何作れるかな。
冷蔵庫の中、全然ないんだけど。
ドッドッと脈打つ心臓の音は気のせいだと思うことにして、
私はお兄ちゃんに背を向けた。
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