<3>
しばしの間二人は街を歩き、途中で化粧直しの為にとジェーンがトイレに寄り、それから少し古びた雑居ビルの前までやってきた。ここまでいくつも寄り道をしたにもかかわらず、ほとんど一本道でやってきたことにセスは「ちゃんと考えてルートを選んでたのか」と再度感心した。
雑居ビルは地下へと階段が続いており、看板も何も立っていないそこへとジェーンとセスは足を踏み入れた。
「……ここがそのクラブなのか?」
「ええ、そう。会員制のクラブで、このカードが無いと入れないの」
「会員制……」
「あら大丈夫よ、アタイの連れってことでアンタも入れるから」
「そのカードは、この捜査の為に作ったのか?」
「偽造ってこと? いいえ、これはちょっと知り合いから譲ってもらったの。……返す予定はないんだけどねぇ」
「………」
「あはっ、冗談よ。そんなに硬くならないで? ……さ、入りましょ」
下まで辿り着くと、ようやく看板らしきものがドアにかかっていた。だがしかしそれは店舗名ではなく『ようこそ』というメッセージとその下には小さく書かれた数字だけだ。それが何を意味するのかセスにはわからなかったが、恋人役でここに来たことを再度自分の中で確認し、自信を持った表情でジェーンに続いた。
中に入るとガードマンらしき男が立っており、ジェーンがカードを見せると男は二人に仮面を手渡した。顔の上から半分を隠す仮面。ジェーンに目で合図され、セスもそれを身につけると、男は二人を奥へと案内した。
奥へ進み重たいカーテンを開けると、広いフロアの中でたくさんの人がおり音楽が鳴り響いていた。グラスを持ち立ったまま会話をしたり音楽に乗って腰を揺らす老若男女。仮面をつけている為はっきりと誰とはわからない。
「こういうところは、初めて?」
「は……じめてに決まってるだろ」
「じゃあ大人しくしててね。誰かと目が合えばちょっと笑いかけるだけでいいわ」
「……会話とかは、しないのか?」
「話しかけてくる奴はいるかもしれないけど、愛想笑いでスルーしてOK。大丈夫、アタイとぴったりくっついててくれればそれで充分」
「ぴったりくっついてなきゃいけない理由は?」
「言ったでしょ、アタイたちは今恋人」
「……恋人に見えないとこの中では困るのか」
「まあそんなところよ」
セスが自然に見えるようフロアを見渡す。確かに男女連れ添っての二人組が目立つ。だが中には男性一人だけでいたり、女性一人だけでいたりするのも伺えた。
「一人でいる奴は……何か理由が?」
「理由はあるわね。様々だけど」
「様々?」
セスが訊いたが、ジェーンはそれに答えなかった。そのままゆっくりと二人はフロアの中を進む。ジェーンがどんな意図でそのルートを歩いているかはセスにはわからない。ただその横顔を見れば、何か目的をもって動いているのは間違いなかった。
「あ、もちろんお酒は飲んでもらうけど……いいわよね」
「ああ、大丈夫だ。筋トレ後三時間は飲酒をしない方がいいらしいからな、今日の筋トレは昼までに済ませてある。本当は飲まない方がいいが……」
「お気遣いどうもありがとう。大丈夫よ、少し口をつけて飲んだふりで十分だから」
ジェーンはそう言うと、近くのウェイターからグラスを一つもらう。セスもそれに倣 ってグラスを取った。ジェーンがグラスに口をつけ、セスも同様に口をつける。飲んだことのない味が舌先に広がり、セスは思わず「うっ」と声を上げそうになった。
「……なんだこれは」
「あら、わかる? ネコちゃんも鼻がいいのね」
「ネコちゃんは余計だ」
「おクスリが入ってるのよ」
「なっ! ……まずいんじゃないのか? 違法薬物の摘発でここに来たのか?」
「違うわ。ただの媚薬よ」
「なんだただの…………媚薬?」
その単語に、セスは手に持ったグラスを見つめる。ジェーンは呆れたように目を伏せると、ぎゅっとセスの腕に抱きついた。
「集中して」
「わ、悪い」
「あっちの席に行くわ」
「席?」
そう言われてセスはジェーンの視線の先を追う。フロアの端にはカーテンの掛かっている席がいくつかあるようだった。
一直線に行くかと思いきや、ジェーンは人の間を縫いながら少し遠回りをするように進んでいく。進行方向を変える時はセスの腕を少し強く握るので、セスはぴりっとした痛みに顔を歪めないように気を付けた。
「……そこが空いたわ。座りましょ」
ジェーンがそう言ったのはちょうどカーテンを開けて男女が出てきた席だった。今出てきたのは二人だったが、他の席には男女四人いる席もあった。しかし薄いカーテン越しに中で四人が行っている行為 に気づいてセスは慌てて目を逸らし、ジェーンについて隣のカーテンを開け中へと入った。カーテンで仕切られた個室は、少し広めのソファが一つ置かれ、その前にはグラスを置く為のガラステーブルがあった。内部に明かりはなく、カーテン越しの光がわずかに入ってくるだけ。
「おい、ここ一体なんなんだ!?」
「しっ、黙って」
セスの唇に人差し指を当て、静かにさせる。ジェーンはそっと隣の席に聞き耳を立てた。セスが先ほど見た男女四人の席ではなく、反対側だ。男性二人が何か会話をしている。会話の内容は女性に関するものだった。どこそこのラウンジにいる何々という女性とはこんなプレイを――そんな話を延々としており、セスは聞くに堪えない様子で口を一文字に結んだ。
話の区切りがついたのか、隣の席から人の気配が消えた。もうどこかへ行ってしまったらしい。セスは少し安心したように胸を撫で下ろしていると、その横でジェーンがソファの裏側部分に手を入れ、そして何かを指先で摘まんで取り出した。小型の盗聴器のようなものに見え、セスは聞いた。
「それはなんだ?」
「内緒」
ジェーンはそう言うと突然スカートの裾をめくり太ももが露わになると、下着の端にそれを隠した。セスはあまりの衝撃にひゅっと息を呑み、視線を逸らす。どうやら細いベルトのようなものが腰に巻きついており、専用に作られているのか小さなポケットにその盗聴器らしきものをしまったようだった。
「……きょ、今日はそれの回収の為にここへ?」
こっそりとジェーンの耳に口を寄せ、セスが訊ねた。ジェーンの耳がぴくんと動く。
「まあそんなところよ。他にも何人かに発信機を付けてきたけど」
「発信機?」
「さっきフロアで歩いてた時よ」
「気づかなかった……」
セスが目を丸くしてソファに背を深く預ける。ジェーンはくすりと笑った。そして今度は彼女の方からセスの首元にそっと口を寄せる。何か話をするのだろうかと、セスは彼女の声が聞き取りやすいようにと少し屈み、頭のてっぺんに立つ耳を寄せた。
「今の話も、大事なお話だったのよ?」
「あれのどこが!?」
「女性の話をしてたでしょう? あれはね、人間じゃなくって武器なのよ」
「武器……?」
「エーテル物質を使った認可の下りてない武器。さらにはウイルス兵器なんかも作ってるみたいね。プレイの内容は……その効果についての暗号」
「なるほどな……暗号を使って会話してたわけか。そいつらを今追ってるのか?」
「そんなところ」
体を離し、ジェーンも深くソファに座り直す。テーブルからグラスを取りくるくると回して中のお酒をかき混ぜ、それを口元に持っていく。――ジェーンはまさかその媚薬入りの酒を飲むのだろうか、とセスは考え心臓が早くなるのを感じた。
「……ジェ」
セスが止めようとしたその直後、ジェーンはソファ横に置かれていた観葉植物の鉢植えの中にお酒を捨てた。
「あら何?」
「いや、なんでもない……」
セスは安堵したようにテーブルに肘をついて両手で顔を覆った。
「もう少ししたら今日は帰るわ」
「ああ、わかった」
「帰りもちゃんと……ん?」
ジェーンは耳をぴくぴくと動かす。そしてカーテン越しに見えるフロアを目を細めて見つめた。
「悪い予感がするわ」
「なんだって?」
ジェーンが何かを見つけたように目を見開き、体を強張らせる。セスも何事かとフロアを見るが、情報が何もない彼にはわからない。隣でジェーンが深く息を吸うのが聞こえた。
「セス、先に謝っておくわ」
「えっ?」
セスの頭を両手でがしっと掴み、ジェーンはそれを自分に引き寄せた。驚いたセスはそのままジェーンの方へ体ごと倒れていき、ソファの上で押し倒すようになる。
「っ、……!?」
セスの唇がジェーンの唇にぶつかった、と思うと同時に舌が侵入してきた。慌てて体を離そうにもジェーンの力が強く逃れられない。
「んっ、んん、……!!」
「っふ、ぁ……んむ……ちゅっ」
ねっとりと怪しくジェーンの舌がセスの舌を絡めとる。
唇がついては離れ、ついては離れ――荒々しいキスに息継ぎができない。
「っ、……~~~~~」
激しい口づけの中、セスは必死に自分の“腰”をジェーンに当てはしまいと抵抗していた。
「……ん、はぁっ……」
ジェーンの息が漏れる。
一分ほど経ったくらいでようやく二人の唇は離れた。
セスは目を白黒させて呼吸を整えようと必死に深呼吸している。
「なっ……なに、……えっ、はあ?」
セスが混乱している中、ジェーンはそっとカーテンの端からフロアの方を覗いた。
「――行ったわね。さっきの男には別の場所でアタイの顔見られてるのよ。仮面をつけてるとは言え、隠れておくに越したことは無いから……………セス?」
ジェーンも乱れた呼吸を整えつつ、セスの方を振り返る。光量の足りていない個室内では暗くてセスの表情が見えない。黙り込んでいるセスの顔を見ようと顔を近づけると――彼は顔を真っ赤にし、固まっていた。
「セス……アンタもしかして」
「言わないでください」
「キスしたの初め――」
「言わないでください!」
両手で覆い隠すセスに、ジェーンは軽くため息を吐いた。
「ごめんってば。こうでもしないとカーテンを開けて入ってくるかと思ったのよ」
「入ってくるんですか!?」
「そういう場所だもの。ここでは基本的に相手がいる人とは交渉なく行為に入っちゃいけないの。もちろん交渉さえあれば……複数人が好きな人たちはここには大勢いるから」
「……一人でいる奴には理由があるって言ってたのは」
「いろんな相手とする為、ってのもあるわね」
「はあああ……」
「もちろんそれを利用して情報のやりとりにここを使ってる奴もいるのよ」
「そういうことだったのか……」
「だから、いかにもこれからおっぱじめますって空気出しておけば同席しようなんて思わないはず」
「……わかってます。わかってるんですが、その、体が追い付かないので待ってほしいんです」
「体?」
言われて気づいたように下半身に目をやるジェーン。セスは視線に気づいたのか少し体を外に向けた。
「大丈夫よ、暗いから見えないわ」
「見ないでいいです!」
「じゃあソレが落ち着いたらここを出ましょ」
「う……はい……すぐ落ち着かせますから」
そう言って深呼吸をするセス。ジェーンはまじまじと彼の顔を見て、ふとテーブルを指差す。
「お酒を飲んだら落ち着くかもよ?」
「それ媚薬入りですよね!?」
「ふふ、冗談よ」
最初に舐めてしまった媚薬入りの酒のせいか、セスは元通りになるまでにかなりの時間がかかった。ただセスはそれがおさまらないことよりも、また何事かが起きてジェーンと唇を重ねなければいけない状況になるのではということの方が気がかりだった――。
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