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「おかえりハルマサ!」
リビングでくつろいでいた蒼角が、シャワーから上がってきた悠真を見上げて言った。
「ああ、はい。ただいま」
悠真の方は随分と火照った体でそこに立っている。
「ハルマサー、ちゃんと髪乾かさないとまたお熱出しちゃうよ!」
「乾かすってば」
「蒼角がやってあげよっか!?」
「いいって! 僕子どもじゃないんだからできるからね!?」
「あははは! ハルマサ元気になった~! よかったよかった~」
蒼角はけらけらと可笑しそうに足をばたつかせると、「あ」とスマホを取り出した。
「ナギねえに報告しなきゃ! ハルマサ元気になったよって!」
「あー……うん、そうだね。連絡したら蒼角ちゃんも帰りな」
「うん! そうだ、さっきね、ねこちゃんとちょっと距離が縮まったんだよ!」
「へえ……?」
蒼角はリュックの中から何かを取り出すと、見せつけるように悠真の前へそれを突き出した。
「これ!」
「……猫用のおやつ?」
蒼角が持っているのは多くの猫が好きなペースト状のおやつだ。
「あのね、最初の方はシャーッて言われちゃったりしたんだけどね、さっきこれを指にちょっとだけつけてクローゼットの中に入れたら、ちょんって、ちょんってお鼻がくっついたの!」
「へぇ~」
「これって少し仲良くなれたってことだよね!?」
「そうだね~、ちょっとは蒼角ちゃんに慣れたんじゃない?」
「やった~!!」
蒼角は嬉しそうにぴょんとその場で跳ねた。そして持っていた猫用おやつをリュックに戻す。
「……あ、ねこちゃんのおやつって結構おいしいんだね!」
「いや食べたんかい!」
悠真の高速ツッコミにまた蒼角はけらけらと笑う。そしてスマホを操作すると、電話をかけ始めた。
「……あ、ナギねえ! あのね、ハルマサ元気になったよ! あとねこちゃんとちょっと仲良くなれた! これから帰るね~! うん、うん……うん? うん、いるよ? 待ってね」
そう言うと蒼角はスマホを悠真に「はい」と手渡した。
「え」
「ナギねえがハルマサとお話したいって」
「あ……はい」
表情を引きつらせながらも笑顔を作って悠真は電話に出た。
「もしも~し、月城さん?」
『ああ、浅羽隊員。体調はどうですか?』
「いやーひと眠りしたら熱も下がって絶好調ですよ! あ、でも念のため明日は休暇を取っておきたかったり?」
『大丈夫そうですね』
「うん、僕の話聞いてました?」
『蒼角はご迷惑をおかけしていませんでしたか?』
「いやーそれが蒼角ちゃん僕の為に冷たいタオルを載せてくれてたり、ゼリーを買ってきてくれたり、めちゃくちゃいい子だったんですよぉ~」
『そうでしたか、それは安心しました』
「ちょっと外が暗いのが気がかりですけど、これからちゃんと月城さんのお宅にお返ししますんで、ご心配なさらず~」
『そうですね、私も駅前まで迎えに行こうと思うので浅羽隊員も心配しなくて大丈夫ですよ』
「はいはい、それじゃそーゆーことで蒼角ちゃんにお返ししまーす」
『浅羽隊員』
急に緊張感のある声が電話口から聞こえてくる。
悠真は固まった笑顔が崩れぬよう慎重に口を動かした。
「はい」
『何もなかったですか?』
「何もとは」
『何かです』
「何か」
『なかったですか?』
「ないですけども」
『そうですか。……それでは明日、また職場でお会いしましょうね。今夜はしっかり体調を整えてください。それでは』
プツ、と音が途切れる。
悠真はゆっくりと画面を確認する。
通話は切れていた。
(何かって、あったらやばいでしょ)
変な緊張感が駆け抜け、せっかくシャワーに入った悠真の背中を嫌な汗が流れていった。
──少しして、蒼角は帰り支度を済ませた。来た時にはパンパンだったリュックはいくらかしぼみ、それを背負うと玄関先で靴を履いた。
「それじゃ、蒼角帰るね!」
「うん、今日はありがとね」
「あ、これからは体調が悪い時はちゃんと言ってね!? 遊ぶ約束中止になってもわたし怒んないから!」
「はいはい、今日は自分でも気づいてなかっただけだから。ごめんね」
「うん。じゃあ……」
「あ、蒼角ちゃん」
「ん?」
ドアノブに手をかけた蒼角が振り返る。いつもの無邪気で何も知らなさそうな無垢な表情。それを見て、悠真は熱に浮かされ見た《夢》を思い出す。
「あー……っと、その、僕寝てる間に変なこと言ったりしたりしてなかったかなー? なんて……」
念のためと悠真が聞けば蒼角は一瞬固まったようにし──
静かに頬を赤く染めていった。
「……えっと」
「?」
「悠真って、おっぱい好きなんだねぇー……あははは……」
「…………え」
「それじゃ、蒼角帰るね! また明日ねー!!」
──バタン!
扉は勢いよく閉じ、そこには一人ぽかんとしている悠真が取り残された。しばらくの間そこで茫然と立っていたが、足元にふわふわとした猫の毛を感じ現実に引き戻される。
「……あれってもしかして、ただの夢じゃなくて」
ふいに、柔らかな胸に埋もれて安心する夢を思い出す。
ぎゅっと抱きしめれば、少し骨にぶつかる小さな胸。
頬に当たる感触に心が穏やかになる。
穏やかに。
「──お、だ、や、かになってる場合じゃないだろ……!」
急激に自身の性別を思い出させるように下半身が張り詰める。それを騙し隠すかのように悠真はしゃがみ込んだ。
(ただ、うちでのんびりビデオ見るだけのつもりだったのに)
(こんなことになるなんて、誰が想像できたんだ……!!)
それからしばらくの間、玄関から苦悶の呻き声が聞こえていた──。
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