***
「……ん」
うっすら目を開けると、濃い青が部屋を包み込んでいた。
どうやらもう夜らしい。
悠真はゆっくりと上半身を起こす。すると、ぼと、と濡れたタオルが額から落ちてきた。もう冷たくはないそのタオルを拾い上げて、どうしてここにあるのかとぼんやり考える。
汗でべたついた身体が気持ち悪い。
「どうしたんだっけ……」
ぼーっとタオルを見つめながら思い出そうとする。
いつから寝ていたのか、
昨日からだっただろうか、
こんな時間まで寝ているなんて随分な寝坊だ、
そんなことを考えているとクローゼットの奥から「にゃお」という声が聞こえた。
「ん……あれ?」
悠真の飼っている猫が、隠れるようにそこにいた。
何故そこにいるんだろうかと考える。
考えて、
思い出す。
「……あ、ハルマサ起きたんだね!」
見れば蒼角が部屋の入口に立っていた。リビングの明かりを背負っているせいで表情はよくわからないが、いつもと変わらず明るい笑顔のように思えた。
「蒼角ちゃん……? え、と、僕は……」
「覚えてないの? えーっとね、お熱があってね、具合悪くなっちゃってね、それでハルマサ寝てたの!」
そう言うと蒼角はベッドに横たわる悠真の脇に立ち、持っていたタオルで額の汗を拭った。
「わ」
「あ、ごめん! ヤだった?」
驚く悠真と、きょとんとする蒼角。
「いっぱい汗かいてるから、拭いてあげるからね!」
そう言うと蒼角はどこか手慣れたように悠真の顔や首の汗を拭っていく。
「あれれ、背中もびっしょりだ!」
悠真の背に触れた蒼角は驚いたようにして、すぐに考え込むように顎に手を添える。
「うーん、ハルマサ、拭いたげるから服脱いで!」
「……え?」
「あ、もしかして自分でできない? 蒼角やってあげるね!」
「……え!?」
困惑する悠真をよそに、蒼角は悠真の着ているシャツのボタンを上からぷちぷちと外していく。蒼角が何故そんなことをしているのかわからない、というように悠真は彼女の顔を見つめるが、蒼角は至って真剣だ。
「はい、袖引っ張るよー」
言われるがままシャツは取り払われ、悠真の上半身が露わになる。熱を帯びた体にはひやりとした空気が気持ちいい。
「背中拭くね」
蒼角は背後に回るようにしてタオルで汗を拭っていった。
悠真もそれを助けるように少し前かがみになる。
「……えっと、ね、蒼角ちゃん」
「うん」
「もしかして、ずっと僕のこと看病してた?」
「うん」
「……なんで?」
「なんで?」
蒼角は復唱し、悠真と顔を合わせる。
「だって具合が悪い時ひとりぼっちはヤでしょ?」
にこり。一つ笑みを向けると、蒼角はまた悠真の汗を拭く仕事に戻った。今度は肩を、脇を、胸を丁寧に拭いていく。悠真はこんな奇妙な事態に今頃ながらも鼓動を速めた。
「蒼角ちゃん、看病慣れてるの?」
「ううん! あのね、ナギねえに教えてもらったの。汗たくさんかいてたらお顔とか拭いてあげてねって。お水も飲ませてあげてねって。あ、お水飲む?」
「あ……うん」
はい、と蒼角はチェストの上に置いてあったペットボトルのキャップを開けて悠真に手渡した。
「ありがと」
「あのね、ゼリーあるけど食べる? おくすり飲む前に何か食べなきゃいけないんだよね?」
「食べる」
「はーい!」
何故だか嬉しそうに返事をする蒼角はぱたぱたと部屋を出ていくと、すぐに手に何かを持って帰ってきた。コンビニでよく見かける大容量のくだもの入りゼリーだ。悠真の横に膝をつくと、そのゼリーのフタをぺりぺりと開ける。ついてきたのであろうプラスチックのスプーンですくうと蒼角は、
「はい、あーん」
「………………」
悠真はドッドッドッと急に大きな音を立てる心臓にパニックになりそうだった。
「あれれ、どしたの」
「………………」
「ハルマサぁ……おくち、あけて?」
ほらほら、と蒼角はゼリーがのったスプーンを悠真の口の前へと持ってくる。その後ろでは今にもそのゼリーを自分で食べてしまうんじゃないかというくらい、蒼角の小さな唇が吸い付きたそうに開いている。それがやけに艶めかしく見えて、悠真は目をぎゅっと瞑って口を開けた。
──ぱく。
「ゼリーおいし?」
「……………おいひい」
「わー! よかったね! 実は蒼角も食べたくておんなじゼリー買ってあるんだ~。あとで食べよ!」
わくわくした様子で、蒼角は次のゼリーをスプーンですくう。そしてまた「あーん」と言うのだ。悠真は観念したように口を開け、それを食す。
「あむ…………それで、月城さんは? 向こうの部屋にでもいるの?」
「え? ナギねえ?」
「さっき教えてもらったって言ってたじゃない」
「ううん、いないよ」
「え?」
蒼角は次のゼリーを準備し、今やひな鳥のようになっている悠真の口に差し入れる。
「ここには蒼角しかいないよ~」
「……ええ?」
「ナギねえには電話でね、いろいろ教えてもらったの。ハルマサがお熱で倒れちゃったから助けて~って」
「そんなの……月城さんなら蒼角ちゃんのこと心配して来ちゃうんじゃないの?」
「ううん、来ないでって言ったの」
「は?」
スプーンが、ゼリーの中に浮いたみかんにぶつかる。それを巻き込んですくうように、蒼角はスプーンを動かした。大きな一口分のゼリーが、悠真へと差し出される。
「蒼角が言ったの。ナギねえも誰も来ないでって」
反射的に開けた口の中に、ゼリーが詰め込まれる。咀嚼する音が、悠真の心臓の音によってかき消される。ただ、そのどちらも蒼角には聞こえていないのだが。
「……ハルマサ、弱ってるところあまり人に見られたくないかなと思って」
「………」
「違った?」
「……いや、違ってはいない、かな」
「蒼角誰にも言わないよ、ハルマサがこーんなふうに弱ってたよ! なんて」
「ああ、そう……」
「あ、お熱計ってみる?」
そう言って蒼角はチェストの上に置かれていた体温計に手を伸ばし、悠真に手渡す。電源を入れ、体温計を脇の下に差し込んだ。しばらく黙っていると、くぐもった電子音が聞こえてくる。
「……どう?」
蒼角が体温計を覗き込むも、部屋が暗く、上手く見えない。悠真は窓の方に体温計を向けて月明かりを頼りに見ようとする。
「ん、熱下がってる」
「ほんと!?」
よかったー、と蒼角はほっとしたように言った。
「これ片付けてくるね!」
空っぽになったゼリーの容器とスプーンを手に、蒼角は行ってしまった。悠真は一人ベッドの上に取り残される。どさ、と後ろに倒れた。枕が自分を受け止めてくれたが、汗ばんでいて気持ちが悪い。
「……うわー、同僚に何させてんだよ、僕」
急に恥ずかしさが込み上げてきて、悠真は両手で顔を覆った。あくまでも『同僚に』『熱を出した自分を看病させてしまった』ことによる恥ずかしさ。そうだと思い込もうとする。 しかしそれが間違いであることに自分でも気づいている。
悠真は熱と違う熱さを感じていた。
(……蒼角ちゃんは、妹みたいで、娘みたいで、そーゆー、扱いのはずなのに)
(なんかおかしくない?)
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