#15 肺と心臓 - 1/7

 しろい、しろい、かべ。

 くさい、くさい、くすりのにおい。

 ながいろうかをあるいてあるいて

 ドアをあければあまいにおい

 ハルマサと、あまいにおい。

「──いらっしゃい、蒼角ちゃん」


 浅羽悠真が緊急入院してから一週間近くが経った。

 最初の数日こそ緊迫感があったものの、今は症状も落ち着いてベッドの上で起き上がれるようになっている。ホロウでの咳と出血の原因は、明確にはわかっていない。体が弱っていたところへいつもよりもエーテル浸蝕が早く進み不運にも倒れてしまった、というところではあるだろうが、彼の病気自体が進行していると断言できなくもない。

「ってなわけで朝から検査検査の連続でさぁ、もう僕ってばヘトヘト~。蒼角ちゃんは?」

「わたしはね、今日はお仕事すっごくがんばったよ! ウェイトトレーニングもマシマシだったし、ホロウも入ったし、あと苦手なおべんきょーもいっぱいした!」

「だから面会時間ギリギリに来たのかぁ」

「うん、入れなかったらどうしようって思って急いで来たの! あーあ、どうしてメンカイ時間って、早く終わっちゃうの?」

「そりゃあ入院患者の寝る時間はとっても早いからね」

「そうなんだぁ」

 そこで「あ」と気が付いたように蒼角は手に持っていた大きな袋を悠真へずいっと差し出す。中にはいくつかのアイテムが入っていた。

「これねー、ナギねえが持ってくようにって!」

「何? 食べ物? またあんぱんが増えたな」

「あとこっちのはボスがねぇ、暇だろうから握力を鍛える修行をしろ、って!」

「ハンドグリップか。……ってこれH.A.N.D.のマーク入ってる。無駄に高いやつでしょ」

「あとこれはね、ハルマサがシドーしてるコーハイたちから!」

「うわぁ、報告書じゃん。病室でまで見なきゃいけないわけ? 僕以外に暇な奴いないの?」

 あーあ、と悠真はベッドに倒れ込む。それを見ながら蒼角は食べ物を脇のテーブルの上に積み重ねた。今までに持ってきた食べ物は全てそこに置いてある。悠真はどれも手を付けていないようだった。

「食べたくならないの?」

「ならないね~。ほら、甘いのばっかりじゃん」

 悠真が指を差す。あんぱん、チョコ、クッキーに、ゼリー、りんごに桃……エトセトラ。さすがにフルーツは腐る心配がある為、変色しそうな桃などは先日から蒼角が食べている。毎日、毎日、仕事後や休憩時間にやってきては話をし、悠真の食べないものを食べていく蒼角。今日も今日とて桃をかじり、伝う汁にあたふたしながら、ぺろりといくつか平らげる。

「桃、美味しかったよ?」

「そっか、それは良かったね」

「蒼角だったらここにある食べ物、一日でぜーんぶ食べちゃうなぁ」

「そりゃ蒼角ちゃんだからでしょ」

 悠真と蒼角しかいない個室に、ハハハッと笑い声が上がる。

 蒼角はふと部屋の中を見回した。


 白い壁と天井。

 冷たい柵の無機質なベッド。

 いくつもぶら下がる点滴のパックと管。

 笑う悠真。


「……あまいの、嫌い?」

「え?」

「甘いもの、ハルマサは嫌い?」

「……あー、いや、苦手なだけだよ」

「苦手と、嫌いは違うの?」

「うーん、そうだね。違うかな」


 上半身を再度起こし、ベッドの向こう側の壁を見る悠真。

 それはどこか遠くの記憶を見つめているようで、

 蒼角は彼の横顔を静かに見ていた。


「昔は甘いものが好きだったんだよなぁ」

「そうなの?」

「でもたくさんの苦い味に慣れちゃって、ああ、それもまー悪くないか、みたいになったっていうか」

「苦い味は、苦いよ? 甘いと幸せにならない?」

「……んー、夢のような幸せに浸っても、現実に戻されるのが怖くなったんだ」

「………」

「僕の現実は、苦い味だから。それならいっそそこにずっといた方がいいじゃないってね」


 蒼角は悠真の首元を見つめる。

 チョーカーで飾られていない首。

 注射痕のある首。


「──でもねぇ、蒼角ちゃん」

「うん?」

「一人で甘いものを食べるのは苦手だけれど、君とならそれもいいかって思うんだ」

「どうして?」

「……幸せな時間も、現実の一部だって思い出せたからかな」

 悠真の手が伸びてくる。

 蒼角は椅子から腰を浮かし、それに頬を擦り寄せた。

「それにね、こないだ蒼角ちゃんとキスをした時に感じた甘さも、悪くないなって」

「!」

「ほら、あの時パンケーキとかアイスとか食べてたんでしょ?」

「わ、わわぁ……そうだねぇ」

「今は桃味だよね」

 にこりと悠真が笑う。

 蒼角は気が付いたようにそっと立ち上がり、ベッドに近づいた。

 自身の角がぶつからないよう気を付けながら、

 小さな唇を寄せる。

 音もなくキスをすれば、

 離れた蒼角は悠真の乾いた唇を見つめた。

「ハルマサはビョーニンだから、今はこれだけ」

「ん」

「元気になったら、いっぱいちゅーしてくれる?」

「そうだね~、してもいい?」

「うん」

「なら早く退院しなきゃなぁ」

 悠真が笑う。

 少し困ったような表情をしながら。

 蒼角は眉を下げた。

「大丈夫だよ、今日の検査結果が問題なかったらすぐ退院できるから」

「本当に?」

「本当に」

 悠真の入院着の襟ぐりから、骨ばった鎖骨が覗く。

 ふと、面会時間終了のアナウンスが聞こえてきた。

「ああ、もうこんな時間か」

 ため息を吐く悠真。

 うっすら開いた唇の隙間から、舌が覗いている。


 蒼角の奥歯が、カチカチッと音を立てた。


「……わたし、たべたい」

「ん? お腹減ってんならそこのお菓子食べても──」

「ううん、わたし、

 

 ハルマサを食べたい」

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