──それはちょうど、月城副課長が席を立ちオフィスを離れていった瞬間の出来事だった。
「あのねハルマサ、蒼角、一緒に行ってほしいところがあるんだけど……」
「え?」
もじもじとする蒼角ちゃんが、僕のデスクまでやってきてそう言った。なんだかいつもと違う様子の彼女に、僕は目をぱちくりとする。
「おやまあ珍しいね、ご飯食べに行こ~ならいつもはもっと気楽に言うはずだけど……どこに行きたいの?」
僕は少しばかり茶化すように言ったけれど、彼女は意に介さないようで床を見つめている。返事を急かすのも野暮かと思い僕は静かに彼女の揺れるまつ毛を見ていた。
「……あのね」
「うん」
「蒼角、“おうち”に行きたいの」
まつ毛はそっと伏せられた。
彼女の小さな唇は少しだけ不安そうに結ばれている。
僕はなんと言うべきか迷い、半分開いた唇からは音も空気も出ていかなかった。
彼女の“おうち”は、今はどうなっているか詳しいことは知らない。だが、戦時中鬼族が隠れていたというその場所を防衛軍が放置しているとは思えない。しばらく経っていることを考えれば今そこを調査の為に人が出入りしていることはないだろうが、きっと立ち入り禁止にはなっているのではないだろうか。全ての鬼族は、今や新エリー都で『庇護のもと』暮らしていると言うのだから。
「蒼角ちゃ──」
「ナギねえには内緒にして! 言ったら、きっとだめって言うと思うんだ」
声が上擦っている。
僕はちらりと背後を確認した。課長ももちろん自席に座っていて、視線こそ交わらないものの大きな耳をぴくぴくと揺らしてはこちらの様子を伺っている。
「……そう言うと思うなら尚更僕は連れて行けないけどなぁ。それに課長だって聞いてるよ?」
「ボスはナギねえに言う!?」
呼ばれた課長はようやくこちらを見て、「ふむ……」と考えるように息をついた。
「何かただならぬことに蒼角が巻き込まれてしまうようであれば、言うだろうな」
「ううー」
「ほらね、蒼角ちゃん。だから……」
「だが」
課長は僕の言葉を遮るように言った。
僕はその一瞬で、
厄介ごとの予感を感じた。
「……だが、悠真が一緒なのであれば……しばしの間黙っていても良いだろう」
「課長!?」
「ほんと!? じゃあ、ボスがナギねえに言わないでくれる間に、ハルマサと一緒に行って来ればいいってことだよね!?」
「ああ、そうだな」
「ちょっとちょっと待ってくださいよ! 大体、蒼角ちゃんも僕じゃなくて課長に言えばよくない!? 僕よりぜ~んぜん頼りになるよ?」
「ボスには迷惑かけちゃいけない、ってナギねえに言われてるし……」
「僕なら迷惑かけていいってこと?」
「悠真、頼りにしている」
「課長も副課長も、面倒ごと押し付けてるだけじゃないですか!」
まだ縦に頷かない僕に、蒼角ちゃんは涙目で床を踏み鳴らした。
「ううー、ハルマサお願ぁい」
「そんな可愛く言われてもさぁ」
「一緒に行ってくれたら、ハルマサがお仕事中にサボって遊びに行ったり一人で映画見に行ったりルミナスクエアの猫ちゃんに引っかかれそうになってたこととか全部ナギねえには内緒にしてあげるから~!!」
「待ってなんでそれ知ってんの!?」
突如バラされた秘密の出来事に僕は息を呑む。
そして仕方なし、僕はため息を吐いて肩を落とした。
「はいはい、わかりました」
「やったぁー!」
「って言っても、僕はおうちってのがどこか全く知らないよ? 蒼角ちゃんは案内できるの?」
「えっとね、あのね」
蒼角ちゃんはそう言うと、スカートのポケットの中から小さく折りたたまれた紙を二枚ほど取り出した。
「これ!」
広げてみると、どうやら地図のようだった。
「これって……まさか機密持ち出したわけ?」
「きみつ? えっと、ナギねえが大事にしてたのだけど、本物じゃないよ! ちゃんとコピーしたの!」
「ああ~蒼角ちゃん最近コピーの仕方覚えたもんね~」
「えっへん!」
多分持ち出し禁止の地図であろうことはわかったが、僕も課長も聞かなかったことにした。課長に至っては実際に耳をぺたりと折りたたんでいる。
「……ま、たまにはこんないたずらも悪くないか」
「いたずら?」
「それで蒼角ちゃん、いつ行こうっての? 次のお休み? でも休日はいつも副課長と一緒に過ごしてるんでしょ?」
「ええとー……」
彼女はいつ行くかなど考えてもいなかったようで、少し困ったように近くのカレンダーを見つめていた。が、僕は良いことを思いついてしまった。今日明日は内勤の予定だ。仕上げなければいけない仕事というのも、まあ明日が〆切のものが大半。と言うことは、だ。
「蒼角ちゃん」
「何? ハルマサ」
「……サボっちゃおっか♪」
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